こんにちは!
最近フラに興味を持ったので、実際にプロの方にお話を聞いてみました!
お話してくださったのは、フラ教室『ハラウ・ナ・レイ・アロハ』の主宰、吉田先生です。
今回は、吉田さんとフラのこれまでについてお伺いします。吉田さんとフラの出会いやハワイでのフラ修行についてたくさんお話ししてもらったので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
↓今回お話ししてくれた方↓
吉田Kaʻena Kū Maka I Ka Lani文乃 さん
(よしだ・カエナ・クー・マカ・イ・カ・ラニ・あやの)
生年月日:1976年5月21日
出身地:東京都
【経歴】
映画『HAWAII FIVE-0(ハワイ・ファイブ・オー)』にも出演した経験のあるプロハワイアンミュージシャンの父親と、多くのハワイアンショーに出演していたフラダンサーの母親のもとに生まれ、幼少期から歌やダンスを習い、舞台やテレビ、雑誌に出演。
1995年、レフアナニ佐竹先生にそれらの経験を買われ、19歳でフラの世界に飛び込む。ハワイでは故ダリル・ルペヌイ先生の精神とフラを受け継ぐべくフラ修行を積み、卒業時に、Kaʻena Kū Maka I Ka Lani(瞳の中に情熱の青い炎を持つ者)というハワイアンネームを授かる。
2000年、24歳で『ハラウ・ナ・レイ・アロハ』というフラ教室を立ち上げ、現在に至る。
ハワイアンイベントや、一流ホテルでのハワイアンディナーショー、テレビ、雑誌、ラジオにも多数出演。老人ホームへの慰問、商店街等の夏祭りへの出演など地域交流にも精力的に取り組んでいる。
自身が主宰するフラ教室での指導を中心に、某大手企業の社内クラブ活動の顧問、ルネサンスのインストラクター、他フィットネスクラブでの指導を担当し、公立幼稚園、公立小学校、ろう学校、インターナショナルスクールなどではハワイ語やハワイの文化や歴史・風習を盛り込んだフラの教育も行っている。
吉田さんとフラの出会いは?
今から50年ぐらい前に、ハワイアンブームっていうのが、日本にあったのね。
父親も母親も両方日本人なんだけど、そのハワイアンブームのときに、父親がハワイアンバンドをしていて、母親はフラダンサーとして踊っていたの。そこで出会って結婚して私が生まれてっていう感じなんです。
もともとご両親がハワイアンバンドやフラをされていたんですね!
『HAWAII FIVE-0』っていう映画があるんだけど、父親はそこに出演をしていたり、ハワイで活躍をしたり、日本に行ったり来たりしていた人で、母親も戦後間もない日本にフラを広めた先駆者たちの1人なんです。
私は高校を卒業して、19の時からフラを始めることになるんだけど、それまではうちの両親のこともあって、フラのことは知ってはいたけど、やるのは嫌って思っていました。
最初はフラを始めるところまでに至らなかったんですね
全然全然、これっぽっちも。私は、ミュージカルやりたくて、歌を習いに行ったり、踊りを習いに行ったり、とある劇団員の先生に習っていたりしていたんです。
でも、才能がなくて、お芝居に強い劇団も落っこっちゃったの。その劇団の主宰の先生に「お前には才能がない」ってみんなの前で言われて、すごいショックで、俳優は無理なんだ、舞台は無理なんだって落ち込んで、どうしようって悩んでいました。
その時に、うちの母親からぽろっと「フラやってみたら?気分転換に」って言われて。
日本ではレフアナニ佐竹先生の下で習ってからハワイに行ったの。
ハワイではどのように過ごしていましたか?
調子に乗ってハワイに行ったんだけど、ハワイに行ったら、もう天狗の鼻ピキっておられて、「お前は何もなってない、何をやってきたんだ」ってハワイの先生に超怒られたの。
そのあとは、床の雑巾がけから始まって、スタジオで寝泊まりさせてもらって、ハワイにいるのに水着を1回も着ない、外にも行かない、朝日も見ないし、夕日も見ない、そんな生活を送っていました。
あとは、ずっと先生についてカバンを持ったりとか、完全に演歌歌手の付き人みたいなことしていた。身の回りの世話を全部やって、完全に弟子みたいな感じでやらせてもらっていて……
たくさんたくさん勉強、修行をして認めていただき、先生からKaʻena kū maka i ka laniという素敵なハワイアンネームをいただいて日本に戻ってきました。
そして、2000年の時に、自分の教室を立ち上げました。
さまざまな苦労をしながら、フラを続けてきた吉田さん。
次回は吉田さんが立ち上げたフラ教室でのエピソードと、フラの振り付けの奥深さについてお話をお伺いします!お楽しみに!