こんにちは!

 

ソウルダンスについてもっと知りたい!と思っていたところ、なんとソウルダンスについてとても詳しい方とお会いする機会をいただきました。

 

今回お話をお伺いするのは、マイケル鶴岡さんです。テレビにも出演していた方なので、ご存じの方もいらっしゃると思います!

日本のソウルダンス発展における生き証人ともいえるマイケル鶴岡さんから、ソウルダンスのリアルをたくさんお聞きしてきたので、ぜひ最後まで読んでくださいね!

 

↓今回お話ししてくれた方↓

 

マイケル鶴岡 さん

生年月日:1955年5月23日

出身地:東京都

 

【経歴】

少年時代から黒人音楽や文化に興味を持ち、学校の先輩に誘われ新宿「ジ・アザー」「ゲット」等のディスコに出入りするようになる。

その後、17歳で六本木「ソウルエンバシー」のスタッフとなり、DJ、ダンサーとして活躍。当時、各地で行われるダンスコンテストで有名になり、数多くのディスコステップも生み出す。その頃からJackson5のマイケル・ジャクソンに憧れ、自ら「マイケル」を名乗る。

1990年、「ゲット」で出会ったニック岡井、「エンバシー」で出会ったドン勝本らとダンスユニット「KING OF SOUL」を結成。60’s~80’sのディスコダンス、ソウルステップを若年層へ紹介、伝承するため日本全国でライブを行う。

 

 


ソウルダンスの歴史をずっと見てきた方だとお聞きしています。まずはソウルダンスの始まりから教えてください。

 

日本での話だけど、始まりはソウルダンスというよりもディスコなんだよね。

昔はディスコっていう言葉もなかったから、踊り場って言っていた。だから「今日、どうする?踊り場行っちゃう?」っていうぐらいのノリで、ソウルミュージック好きなマスターがやっているバーとかスナックに、同じくソウルミュージック好きな人が集まっていた。

ソウルミュージックが好きな人は、ノリがいいのが好きだから、ジャズバーみたいに座ってほんほんほんほんって聞いているよりは、ちょっと揺れたり、勇気のあるやつは立ったりして、踊るというよりも、動く、揺れるって感じで楽しんでいた。

 

 

 

そうなんですね!ゼロから、じわじわって始まっていったんですね。

 

そう、本当に1人、2人のところから始まって、そういうのが好きなやつが「じゃあみんな今度の何曜日集まろうぜ」とか言って、だんだん5人、10人になっていった。
それで、小さいお店では人が入りきらなくなって、どっかのホールを借りてやるようになって……っていうのが、ディスコの始まりかな。だから、その当時は、ダンスももういい加減なわけさ。

ソウルミュージックに合わせて踊った本場アメリカの映像なんて見たことないんだから、なんか想像で踊ってたわけ。

そうやってディスコというものができたのが1960年代後半。ディスコっていう名前が付いたのが先か、そういう場所ができたのが先かは定かではないのだけど。

あなたがもしご存じだとしたら、 ディスコって大箱なイメージあるでしょ。

 

 

 

あります。

 

ね。でも当時はせいぜい100人ぐらい、坪で言うと30坪ぐらいのところに、当時としては本格派な踊り場を作って、ディスコの原型ができ始めた。

場所で言うと、新宿を中心に六本木とか赤坂とか、そういうところからのスタートだね。 


日本には、横須賀とか座間とか横田とかに米軍の基地があるでしょ。それで、兵隊さんたちも、日本で踊れる場所があるよっていうのを聞きつけて、何人かで遊びに来るわけ。

そういう兵隊さんたちの中には、用があって日本に来て1ヶ月そこらでまたアメリカに帰っちゃうような人がいるわけさ。そういう人たちは、アメリカでいま流行ってる曲とか、踊りとかを知ってるわけ。
だから、その人たちがその当時アメリカで流行ってる踊りを踊るわけよ。
すると、こっちは「なんだあれ、かっこいいなあー。じゃあ、ちょっと後ろについて覚えようぜ」とか、帰ってから「こうやってたよな」なんて言って、だんだん、だんだん、その踊りを覚えていくわけ。
それが、日本のソウルダンスの始まりだ。


その後70年代に入ってくると、映像が見れるようになる。
いろんなビデオがあったりとか、テレビでもちょっとソウルダンスをやるようになったりして、そうすると、だんだん本場に近い踊りになっていくんだね。で、日本人ってさ、盆踊りとかみんなで同じ動きをするのが好きなのよ。だから、2人、3人、4人、5人って同じステップを踏む、同じ動きをする。そういう動きを日本人同士で流行らしていくんだな。

だから、ソウルダンスは、日本で言うと大きく2つに分かれていて、ひとつはさっき言ったようにステップを踊る、揃って踊る。みんなで盆踊りみたいに一列になったり、あとは向かい合って花いちもんめみたいにして踊ったりする。

もうひとつはフリーダンスって言って、基本な動きは決まっているんだけど、あとは結構自由に踊れる。あまり他の人との関係性がないから個性を出せるダンス。

 

 

 

ソウルダンスやディスコは、爆発的に広がったというよりもだんだんと広がっていったんですね。

 

そうね、爆発的に広がって大箱ディスコになったのは、80年代に入ってから。

だから、それまでの60年代後半から70年の初め、中盤ぐらいまでは小箱というか、スナックに毛が生えたようなとこでやっていたのよ。

 

 

 

ディスコが爆発的に広がったきっかけとかってあるんですか?

 

ドカンと来るきっかけとなったのが、『サタデーナイトフィーバー』っていうディスコを舞台とした映画なのね。出演しているのは黒人じゃないんだけど、曲はディスコの曲をいっぱい使っているわけさ。それが妙に流行った。

それから、ディスコの認知度が高まって、世間に広まっていくわけ。それまではディスコって危ない場所、変な大人が集まっているとこだとか、不良のたまり場だとかそんなイメージだったわけ。それが『サタデーナイトフィーバー』以降、一般の人も行くようになった。

もう本当の最盛期には、六本木に地下2階から9階建てのスクエアビルっていうのがあったんだけど、ビルの全フロアがディスコのホールだった。

今はもうコロナであんまりやらなくなっちゃったかもしれないけど、コロナ前なんかは会社が忘年会とかやるじゃん。そして、「じゃあ2次会カラオケ行くぞ」ってなるじゃん。当時は忘年会のあと「じゃあ2次会ディスコ行くぞ」っていうのが当たり前だった。
しかも会社側としてもいいわけ。ディスコだと料金3000円ポッキリとか、入場料払ったら中で飲み食いフリーとか、下手すりゃ女性無料だとか、そういうとこがあった。お金かかんないから、一般のサラリーマンからなにから全員行くような場所だった。

 

 

 

私の中のイメージだと、ディスコって「ダサい人はダメです。おしゃれな人だけどうぞ」みたいな、選ばれしものだけが行っているイメージだったので、みんなこぞって行っていたというのが意外でした。

 

そうそうそう、エビバディウェルカムだから。

でも中には、あなたがおっしゃったように、ちょっとハイソサエティーなドレスコードがある店も出てきた。一部の六本木や赤坂の高級ディスコだね。
だけど、一般的には誰でもオッケー。

 

 

 

ビル1棟まるまるディスコホールというだけでもなかなかすごいですが、ここら辺全部ディスコエリアみたいな場所もあったんですか?

 

そうそうそう、あったよ。新宿だったら歌舞伎町のエリアとかね。六本木はさっき言ったスクエアを中心に、あっちもディスコ、こっちもディスコ、ディスコだらけだった。

だから、六本木だけでもそれこそ一晩に何万人っていっていたんじゃない。

 

 


 

最初は一部のコアなソウルミュージックファンが始めたソウルダンス。それがどのように広がっていったのか、ソウルダンスの歴史についてお聞きすることができました!

当時のディスコ、ソウルダンスを体験している方に実際のお話を伺うと、当時の情景が目に浮かんでくるように感じますね。

 

次回は、マイケル鶴岡さんとソウルダンスとの出会いについて深掘りしていきます。お楽しみに!